日本代表は10月にはパラグアイとブラジル、11月にはペルーという難敵と対峙することになっているが、ここから足踏み状態が続くと、選手たちの不安が高まり、周囲の雑音も大きくなりがちだ。
それを実際に経験したのが、“史上最強”との呼び声の高かった14年ブラジルW杯に挑んだ「ザックジャパン」の面々だ。とりわけ、吉田麻也(LAギャラクシー)とともに最終ラインを担っていた今野泰幸(南葛SC)は「W杯前の重圧」を強く感じた1人である。
今野を襲った過去最悪のスランプ
「W杯が近づくにつれて、めちゃくちゃプレッシャーを感じるようになっていったんです。『自分は代表のレギュラーだ』とか『もうすぐW杯がある』という意識が高まり、14年になってからは変に守りに入っちゃった」
同年の今野は過去最悪のスランプに陥ったと本人も言い切る。
「本当に絶不調に陥りました。下からは伸び盛りの森重(真人=FC東京)も追い上げてきてましたけど、『このまま無難にやっていたらレギュラーで大舞台に立てるな』という打算も頭に浮かんだりして、どんどん硬くなった。そんな悪循環が最後まで続きました」
今野は10年南アフリカW杯のメンバーだった。コンサドーレ札幌時代からの恩師・岡田武史監督(FC今治会長)が率いるチームで貢献したいという思いも強かったが、出番を得られたのは、グループリーグ第3戦・デンマーク戦の後半43分からの数分間。その分、14年に懸ける思いが強かったのだ。
実際、10年秋に就任したアルベルト・ザッケローニ監督は今野を重用。本職のボランチではなかったものの、吉田とともにセンターバックで起用し続けた。
「ボールのつなぎや攻撃の組み立てを教われたのはものすごく新鮮だった。僕自身、多少なりとも前進しているように感じていましたし、『自分が世界と戦えることを証明したい』という思いが強まっていきました」
そう手応えを感じていただけに、大会前の不振は想定外だった。
苦境に陥ったのは、今野1人ではなかった。13年6月のコンフェデレーションズカップでブラジル、イタリア、メキシコに惨敗してからチームは揺れ動くようになった。指揮官は大迫勇也(ヴィッセル神戸)や山口蛍(V・ファーレン長崎)ら若手を抜擢するものの、既存戦力との融合がなかなか進まなかった。
さらには「俺たちのサッカー」を主張する本田圭佑ら攻撃陣と、「勝利を最優先に考えるべき」という内田篤人ら守備陣の考え方が徐々に乖離。チームの一体感が薄れていく。
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